夫は、私がいることで幸せに、本当に結婚してよかったと思ってくれているのか、私には何の自信もない。人間の顔がさまざまであるように、夫婦の形はさまざまである。しかし、互いの幸せを願う気持ちは一つでありたい。おすすめ 出逢い アプリ で愛という不確かな見えない紳で結ぼれているからこそ、年輪は尊いのではなかろうか。今日ある幸せに感謝太陽が昇り、夜が明けてくると、しずまり返っていた朝の空気をやぶって新聞配達の音、早朝出勤の人の靴音がひびき、少しずつ人々のさざめきが町の中にこだましてくる。ありがたいことに、どんな人にも平等に、一日が始まる。そしてさまざまな人生模様がくりひろげられる。輝かしい朝の光に包まれて、今日もまた頑張ろうと心を弾ませている共働きの夫婦、いそいそと食卓を囲む若い夫婦、そしてなかには、うまくいかない仕事のことで頭が一杯になり、そのいらつきを委に向けて発散している人もいるかもしれない。あるいは、貝のように口を閉じて、陰うつに黙っている人もいるだろう。親戚とのいさかいや近所とのつき合いがうまくいかずにいらついている妥がいるかもしれない。そこには、百人百様の朝があるのだろうが、夫婦の姿もまさに百様である。しかし、形はさまざまであっても、愛と信頼という紳は一つである。お互いの聞に絶対の信頼関係があれば、欧米の人のように、毎日、「愛しているよ」とロに出して言わなくても大丈夫と思う夫婦は多いかもしれない。しかし、私は、口に出して表現することによってお互いの愛をより確かにできるのだと思う。愛とはそれほどもろいものではないだろうか。二人の聞の愛を育てるには、日々、お互いに、滋養を与える努力をしなければならないのではなかろうか。だから、もう少し、自分のつれあいのことに関心を持ち、もう少し、その相手のよいところに感謝し、その感謝の気持ちを何らかの形に表わしてもいいのではないだろうか。そうして刻まれる夫婦の年輸が、困難や苦境の時にも支え合える強さとなるのである。そういう私は、すでに述べた通り、決してよい妻ではないのだが、今日ある幸せに感謝し、夫だけでなく子供たちにも、そして多くのやさしくして下さった友人たちに、「皆さんのお陰で本当に私は幸せでした。これからの人生も、それを支えにして生きていきます」と心の中で手を合わせる気持ちを持ち続けたいと考えている。〈終わりに〉女が輝くとき家族は幸せになる私は今年五十七歳です。

結婚して三十三年が経った。よく続いたと自分でも信じられない気持ちである。二人の娘も大過なく無事に大きくなった。現在は人生八十年時代、結婚生活五十年が当たり前になって来ている。とするとまだ二十年ぐらいはお互い、何とか支え合って生きていかなくてはいけない。これまで、海外生活の三年間以外は、ほとんど働いていた。それも幸い、自分のやりたいと思う仕事をしてきた。もし私が、夫を頼って、まあまあ恵まれた生活に甘えて妻業、母親業だけを何となくしているだけであったら、今のように、張りを持って、充実した毎日が過ごせたとは思えない。また、常に新鮮な気持ちで、夫との時闘を楽しんで暮らすことはできなかったろう。私は、中学生の頃から、何か新しいことにチャレγジすることに生きがいを感じていた。結婚してからも、よき妻になることだけを考えて暮らしていたとは言えない。一日の相当の時闘を、自分のやりたいことのために使ってきたし、娘たちを育てている問でもそうだった。私が私自身のしたいことをしていたからこそ、夫との愛情を育てることができ、そういう中で子供を育てたことも、長い目で見てくれれば、子供たちにとってもよかったのではないかと信じている。男が女を好きになり女が男を好きになる。これは偶然である。偶然そうなってしまうのである。ところが若い人は、とくに女の場合、それを必然と思い込んでしまう。ここに悲劇の因がある。ある女が悪い男に引っかかって、公金をごまかして貢みつぐ。第三者が見たら、「なんというバカな」と思う。だれしも、そう思う。しかし、当の女にとっては一所懸命なのだ。そうしなければ男が去って行く。去られではならない。そうなったら、自分のしあわせはおしまいだ。やみくもに、そう思い込んでしまう。そんな逆上している女でも、「いけないことだ。あんな男とは別れたほうがいい」という反省はかならずある。その反省心が行動を規制するには弱過ぎるのだ。なぜそうなるかというと、男女の結びつきは偶然であり、熱い恋心も一定の期間が過ぎれば消滅するものだということを知らないからである。あたまで知っているとしても、実感できないからである。偶然によって生じたものは、偶然によって消滅する。理の当然である。十九歳の少女が、「好きで好きでたまらないんです。でも、彼はふり向いてくれません。毎日がつらい。このままでは、死んでしまいたいくらいです。どうすればいいでしょうか?」相談に来た。「見込みのない相手なら、忘れる以外にはないでしょう。

忘れる努力をすること、好きになる前は好きではなかった。もう好きになったんだからしょうがないというのは、自分を甘やかした考え方です。生ある者はいつかは亡ぶ、恋情だって同じことです。やがてはこの苦しさからまぬがれることができる、いつも自分にそう言い聞かせることです」あるとき、酒の席で、二十三歳の女から同じ相談を受けた。その女は性の体験者であった。ぼくは乱暴なことを言った。「きみには今、相手がいない。ひたすら、片思いしているだけで、他の男を田持性と感じる余裕はない」「そうです。あの人のことばかり考えているんです」「それがいけない。しかし、他に好きな男をすぐにみつけるといっても無理だ。好きでなくてもいいから、きみにふさわしいある男に抱かれてはどうかね」「まさか」「いや、それが、きみの今の苦しみから脱却するもっとも早い道なんだ。きみはチャングだから、たいていの男ならよろこんできみを抱くよ」「冗談はよしてください」ーミ「冗談ではない。本気で言っている。どうせきみは三年前に処女を失っている。そのあと、だれとも寝ていない。あたらしくだれかに抱かれたら、きみはそのあたらしい男を好きになる。今の片思いの男なんか、どうでもよくなる。今の苦しい思いをケロリと忘れることができる」「なぜ、その男を好きになったか?」その理由は、は点グい。だけのことである好きという感情の正体恋愛感情が発生した場合、いくつもの理由が挙げられる。、まことにもっともである。ひとつひとつけれどもそれは、「なぜその男を」という決定的な理由ではない。似たような引はいくらでもいる。その男よりももっと彼女の琴線に触れてしかるべき男にもかかわらず「その男」を好きになったのは、たまたまそんなめぐり合わせになった。、つまり、「めぐり合わせ」が恋の主役であって相手の男の個性ではない。めぐり合わせが変化すれば、恋の対象も移る。人の心とはそういうものだ。恋愛を絶対のものであると思つてはならない。あくまでも相対的なものであって、ある意味ではチャラγポラγなのだ。恋心なるものを分析すれば、何も残りはしない。芯のところには何もないのに、人をして死に至らしめるほどの強大な力を持つ。それが恋愛なのだ。したがって、成立しない恋にいつまでも執着するのは、まったく合理的ではない。あっさりと方向転換するのが賢明だ。永遠の恋などというものは、ことばとして美しく聞こえるが、そんなものはありはしないのである。

それほどの純情を俸げるにふさわしい男や女がこの世に存在しているはずが同元、。ある時期、ある男に恋をする。つぎのある時期、今度は別のある男に夢中になる。だいたい女は、一生のうちに三回ぐらい恋をするようだ。多い女になると、十回も二十回も恋をする。そしてそのたびに、「今度のこの恋こそ、ホンモノだ」と思う。恋にホンモノもニセモノもない。普通若い人があこがれている恋がホモノならば、現実の恋は、すべてユセモノである。その点、純愛物語の作者は嘘をついている。現実にはあり得ない恋を描いている。それが描けるのは、登場人物がその作者の創造であって生きた人間ではないからである。物語の主人公は、つねにその物語に合うように作られており、それに合わない部分はけっして描かれない。二十五歳の男が二十歳の処女に片思いして、ひとり悶える。その女のためなら水火も辞さないほどののぼせ方である。-~q::恋の主役は‘めぐり合わせ.であることを忘れてはならないその恋心を中心にして、ストーリーは展開される。作者は、これでもかこれでもかと、その男の純情ぶりを強調する。人はその物語を読んで主人公に同情し、その純粋さに感動する。ちょっと待て。では二十五歳のその背年は、性欲の処理はどうしているか?性欲を感じていないとすれば、彼は男ではない。男性失格だ。当然、恋をする資格などなし。健康な男ならば、性欲を有しているはずであり、なんらかの方法でそれを処理しているはずだ。しかし、作者はそれに目をつむる。それを密かない。ひたすら純愛に生きているはずのその男が、一方では金で娼婦を買ってその女体で快感を得ていることなど、物語のぶちこわしになるのである。しかし、現実の人間ならば、そうなのである。「あの女を好きでしょうがない。しかし今夜は、淫売を買う」これが必然的な行動なのである。じっさいには男がそうしたからといって、その恋心の純粋さが損われるものではない。男とは現実にはそういうものだ。しかし、男の生理を知らない女はそう思いたがらない。思いたくないから、そう思わな-物語の読者も、作者にあやつられてそのことを考えようとしない。恋の寓実とその裏側の都度その女にとっては真実なのだ。ある女が何回恋をしようと、人はその女の恋をユセモノと非難することはできない。そということは、恋は絶対ではないというりっぱな証明になる。一回だけしか恋をしなかった女の恋だけがホγモノとは言えない。

たまたまその女は一回しか恋する偶然にぶつからなかっただけのことで、たしかにその恋が実れば一応しあわせだが、そのために一生不幸を背負い込んで生きなければならなかったという女も多い。よく女は、「好きになってしまったんだからどうしょうもない」hvとおっしゃる。その甘えのなかでとんでもないくだらん男にのめり込んで行くが、これほどおろかなことはない。「好きになっているけれども、この恋心はあたしを不幸にする。早く逃げるほうがいい。逃げるにはどうすればよいか」生きる姿勢をその方向へ持って行くだけの理性こそその場合は必要なのである。ぼくが乱暴にも、「他の男に抱かれたら」と言った女は、ほんとうにぼくの勧告を実行した。そして、それまですこしばかり好ましいと思っていただけのあたらしい男に、今度は夢中になってしまった。あっけないものだ。その男には妻子がいたから、今度はより深刻な問題になった。ぼくは責任を感じているが、今のところトラブルはなく、彼女は幸福そうである。週にご回も、この男女はデートしている。世のなか、むつかしいものである。U一度の恋で泣かないために恋愛経験のあとにくるもの確率から考えると、恋愛から別れに至る例は恋愛から結婚に達する例よりも圧倒的に多‘ということは、一回の失恋をしたとしてもそう嘆き悲しむことはない、という教訓になるはずだ。ぼくは現在、高校時代の同窓の多くとまだっきあっている。そのなかから親しい者数人の、ぼくが知ったかぎりの恋愛経験を指折ってみよう。。高校のとき、すでに恋人がいた。キスだけの関係。高卒後大学に入り、最初のその恋人とはしだいに疎遠になり、大学近くの喫茶店に勤める少女と仲良くなった。その少女とは肉体関係も持つに至る。すでにその前、は新宿の娼婦によって童貞を失っていた。相手の少女も処女ではなく、が四人目であることを正直に告白した。明るくて索直な子であった。AAしかし、二年間で二人の仲は消滅した。少女が親の病気で郷里に帰ってしまったのである。愛があれば遠くへだたっていても恋仲はつづくのが望ましい。現実には、そうではない場合が多く、人はそれを非難できない。去る者は日々に疎しとは格言にもある。それが人間の性なのである。には三番目の恋人が出来た。下宿の近所に住むである。すぐに肉体的にも結ぼれた。その子はそのとき初体験であった。卒業まで、その子との仲はつづいた。しかし、Aと少女の父親は、うまく行かなかった。

親を選ぶかを選ぶか、少女は二者択一を迫られ、結局親を選んだ。親の勧める男と結婚するためにに別れを宣告したのである。失恋のは大学を出て就職し、しばらくほ夜の女と遊ぶことで憂さをはらした。そのAに第四の恋人が出来た。勤めている会社の別の諜に勤めている女である。からプロABlポーズし、ふたりは親密になった。ところがその女と親密にしているのはばかりではなかった。それを知って、はその女と別れた。大学卒業後三年経って、は中学の先輩の勧めによって見合いをし、結婚した。つまりは、四回の恋愛を体験したあと、恋愛相手ではない女と結婚したのである。結婚後、ふたりはきわめてむつまじく暮しており、現在一男二女の親である。は過去の恋愛について語るとき、「みんないい子だった。おれは真剣に惚れた。状況によっては、あの四人のだれかと結婚していたかも知れない。しかし、今の女房と結婚して一番良かった、とおれは思っている」とつけ加える。→恋に不幸な女もいる子。高校時代、ひそかにある男子生徒を慕っていた。しかし告白せずに卒業し、就職した。その秋、会社の同僚の紹介で一人の学生とつきあうようになり、やがて恋愛関係に入って行く。キスを交わす仲になった。しかるに、その学生には女がいた。学生の近くに住む未亡人と二年越しに親密な関係をつづけていたのだ。学生はその未亡人に、恋愛感情は抱いていなかった。欲望処理の相手であった。したがって、子にほんとうに惚れていた。けれども、子は相手を許すことが出来なかった。絶交した。そして、それまで恋人であった学生の友だちと急速に親しくなった。処女を喪失したとき、子は相手のその学生をそう愛してはいなかった。最初の恋人との別れの苦しさから逃れるために、男の要求を受入れたのである。肉体関係が生じてから、子はその相手に夢中になった。二人の仲は三年間つづいた。三年後、相手は結核で倒れ、療養所に入ってしまったのである。子はたびたびその療養所に恋人を見舞った。ある日行くと、相手の母親がいた。帰途、いっしょになった。そこで子は、その母親から、「もう、見舞いに来てくれないで欲しい」と頼まれたのである。「あなたに会っているから、あの子の病気はよくならない。あの子を助けたいと思ってくれるなら、会わないでください」子には母親のことばはよくわかった。見舞いに行けば、どうしても人目のつかないところへ二人は行く。情熱のひとときを過すようになる。